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浦和地方裁判所 昭和56年(行ウ)11号

原告

會田瑤惠

右訴訟代理人弁護士

丸山和也

阿部佳基

被告

地方公務員災害補償基金埼玉県支部支部長畑和

右訴訟代理人弁護士

関口幸男

早川忠孝

右訴訟復代理人弁護士

松坂祐輔

主文

被告が原告に対し、地方公務員災害補償法に基づき昭和五四年一二月二七日付で會田瑞男の脳卒中(死亡)につき公務外災害であると認定した処分はこれを取消す。

訴訟費用は、被告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  原告

主文と同旨の判決

二  被告

「1 原告の請求を棄却する。

2 訴訟費用は原告の負担とする。」との判決

第二当事者の主張

一  請求の原因

1  行政処分の経過と原告適格

原告は、越谷市職員として在職中の昭和五四年二月二一日死亡した故會田瑞男(以下単に「瑞男」という。)の配偶者であるが、瑞男の死亡が公務に起因したものであるとして、被告に対し、地方公務員災害補償法四五条に基づき公務災害の認定を請求したところ、被告は昭和五四年一二月二七日付で本件脳卒中(死亡)は公務に起因したものとは認められない旨決定(以下「本件処分」という)した。

原告はこれを不服として地方公務員災害補償基金埼玉県支部審査会に対し審査請求をしたが昭和五五年一〇月三〇日付で前記同様の理由で棄却されたため、さらに、地方公務員災害補償基金審査会に再審査請求をしたが、昭和五六年九月二日付で再審査請求を棄却する旨の裁決がなされ、同年一〇月二日その送達を受けた。

2  しかしながら、瑞男の死亡は公務上死亡した場合に該当するから、被告がこれを公務外災害と認定した本件処分は違法である。

3  よって、その取消しを求める。

二  請求の原因に対する被告の認否

請求の原因1は認めるが、2・3は争う。

三  被告の主張

1  瑞男は、昭和五四年二月一六日早朝、公務出張先の宿舎である長崎県平戸市大久保町二五二〇番地所在の旗松亭において意識不明となっているところを発見され、同月二一日午前三時三〇分長崎県佐世保市戸尾町四番五号医療法人白十字会佐世保中央病院において脳卒中により死亡したものである。

2  地方公務員災害補償制度において、本件のような脳卒中による死亡が公務上の災害として認定されるためには、当該疾病が単に公務中に発症しただけでは足りず、公務と発症・死亡との間に相当因果関係が存在することが必要である。

瑞男の死亡は、出張中に死亡したので公務遂行中死亡に準ずるものとして「公務遂行中死亡」と認める。

しかしながら、右発症・死亡は公務と相当因果関係があるとは判断できない。すなわち、瑞男は、昭和五三年四月一日越谷市の開発部管理課長の職にあるが、勤務状況をみても管理職の職務としては、特に過激な勤務を強いられてきたとは認められない。休暇の取得もさほど困難な状況にあったとはいえない。

また、瑞男は南越谷土地区画整理審議会委員の熊本・長崎方面への行政視察の随行中死亡したものであるが、視察旅行の随行責任者としての精神的・肉体的疲労はある程度認められるものの、視察旅行の随行という職務が特に過激または異常であったとは認められない。

さらに、瑞男は、別表五(下表…編注)のとおり血圧の変動が著しく医師から注意をうけていたものである。

四  被告の右主張(三)に対する原告の認否反論

A  1の事実は瑞男の死亡時刻の点を除き認める。瑞男の死亡時刻は昭和五四年二月二一日午前三時一〇分である。

B  2の瑞男の死亡が公務と相当因果関係にないとの認定は誤りである。すなわち、

1 瑞男の勤務状況等

(一) 越谷市開発部の業務内容

瑞男は、昭和三一年五月越谷市役所職員に採用され、総務課、水道課、都市計画課、福祉部保健年金課等に配属された後、昭和五三年四月より開発部管理課に配属され課長として職務に従事してきたものであるが、瑞男が開発部管理課課長に就任した昭和五三年四月当時、越谷市は急激な人口増加と都市化の波にあらわれたため、新しい都市計画の必要に迫られ、六つの土地区画整理事業(<1>南越谷区画整理事業<2>千間台区画整理事業<3>東越谷第一区画整理事業<4>東越谷第二区画整理事業<5>南部地区区画整理事業<6>鷺高区画整理事業)が着手され進行しており、開発部の主たる仕事は、右区画整理事業を遂行してゆくことであった。区画整理事業は単に土地の区画を整理することのみを目的とするものではなく、土地利用の適正化を図り、公共施設の整備改善を図ることにより、究極的に地域住民の生活文化の向上を目ざすことを目的とするものであるから、その遂行のためには、単に土地に対する関係者の利益の調整のみではなく、地域住民の人間関係、さらには理想とする生活文化に対する考え方の違いをも把握調整しながら全体の事業を進めることが必要とされる極めて複雑な配慮を要する骨の折れる業務であった。

(二) 管理課長の職務内容

越谷市の開発部には、昭和五三年四月当時、開発指導課、管理課、都市計画課、工務課の四課が存在しており、このうち前二者は所轄の事務の範囲及び性質上、とりわけ忙しく、中でも管理課は四課の「筆頭課」と称されており、他課の業務の全体像を掌握する必要があるのみならず、各課の予算の作成責任をも負担しており、同課長の責任は広範かつ重いものであった。とりわけ、瑞男の課長在職当時前記のように六つの土地区画整理事業が同時に進行しており、瑞男はこのうち前記<5>を除く五つの事業につき責任をもって遂行していたのであるから、その負担は極めて大きいものであった。

(三) 瑞男の通常時の勤務状況

瑞男の管理課長在職当時、越谷市の規定により、その勤務すべき時間は、午前八時三〇分から午後五時(土曜日は正午)までとされていた。

ところで、瑞男の実際の勤務状況は次の通りであった。

瑞男は、通常午前六時ころ起床し、朝食後出勤の準備をして、午前七時四〇分から五〇分の間に自宅を出て車で市役所に向かい、午前八時過ぎころ到着していたが、出勤前の午前七時から同七時三〇分ころまでの間、約一五分間位、当時の上司であった中村正男開発部長(以下「中村部長」という)等と電話で当日の仕事の打合せや前日の仕事の報告などをすることを常としていた。瑞男は管理職の立場及び山積する仕事量のため、市役所に到着後直ちに仕事にとりかかり、ひとときも休憩する間もないまま昼休みまで職務に精励するのが通常であった。また、昼休みの休憩時間は規定上、午後一時までとされていたが、瑞男は、自宅よりいつも弁当を持参して職場において食べていたため、他の職員からの仕事の相談を受けたり、電話の応待のため、一時的にせよ仕事から解放されて昼休みをとることは困難な状況にあり、三〇分程度も休めれば良い状態であった。午後五時以降の残業時間については必ずしも一定せず、明確な記録も残されていないが、原告の観察による瑞男の帰宅時間から、その超過勤務時間を逆算すると別表一(下表…編注)のとおりとなり、これは、瑞男の実際の超過勤務時間数に極めて近似するものである。右によれば、瑞男が、昭和五三年四月に管理課長に就任して以来、その職務は多忙をきわめ、超過勤務時間も相当数にのぼっていたことが明らかである。

(四) 瑞男の被災直前の勤務状況

右のような多忙な勤務状況に増して、瑞男の死亡直前の二か月半、すなわち、昭和五三年一二月から昭和五四年二月中旬にかけては、次に述べるとおり、瑞男の直面していた職務の質及び量からみて、瑞男は心身共に疲労困憊の状況にあった。

(1) 昭和五三年一二月の越谷市定例市議会は同月四日から二六日まで開催されたが、瑞男は、右議会開催前にあっては、それまで遂行してきた各種区画整理事業その他の業務に関する報告準備、質疑に関する応答準備、市の責任追求に対する事情説明の打合せ、関係有力市議会議員との事前折衝、根廻し等を行ない、右議会開催時期にあっては、議会開催中常に待機し必要時には直ちに答弁の資料が提出しうる様に準備を整え、さらに、市議会における市長の施政方針に関する演説の原稿をも草稿するのが常であった。ところで、右市議会の前半は比較的平穏に過ぎ、午後七時までに終了することが多かったものの、その後半はしばしば審議が紛糾し、ほとんどが午後九時以降に及び、うち三回は午後一二時近くまで及んだ。瑞男はこの間、課長の職務上、市議会控室で待機するのを常としていたため、議会開催時間の延長に伴ない帰宅時間もしばしば午後一一時、一二時に及び、時には午前一時頃になることもあった。

(2) 右二か月半の時期は、年度末が近づく時期にあたるため、各種懸案事項の進展状況に気を配り、解決しうる事項はこれを急ぐと共に、次年度に引継ぎするための整理も必要とされるので、瑞男の通常業務も増加し負担も増していた。また、年度変りに人事異動も通常予想されるので、管理課長である瑞男は、開発部内における各担当者の異動をも考慮して管掌事務全体を掌握する必要があった。加えて、瑞男は、管理課長着任以来、初めて迎える年度末であったため、管掌事業の進展状況をとりわけ気にしていた。

(3) 瑞男がその途中で死亡した本件視察旅行(以下「本件旅行」という。)は、一一年の歳月を要した南越谷区画整理事業の竣功を記念して、これに貢献した土地区画整理審議会審議委員(以下「審議委員」という。)の長年の労苦に対する慰安と審議委員及び市の担当者の今後の区画整理事業に対する勉学のための視察を兼ねた公務出張旅行であったが、瑞男は本件旅行が右趣旨目的等にそうものとなるよう充分配慮して自らすべてを企画する必要に迫られ、また、自己の管理課長着任後初年度の、しかも初の完成区画整理事業を記念する視察旅行であったので、その成功を大変気にしていた。

(4) 昭和五三年一二月二五日に、越谷市管理の公園内で作業員の不注意による投石で人身事故が発生したが、公園管理は、瑞男の属する管理課緑化公園係の管掌事務であったため、瑞男が右事故の事後処理を担当することになった。瑞男は、被害者との交渉のため、市役所から三、四キロメートル離れた被害者宅に、単独又は中村部長同伴にて、本件旅行直前まで最低六回訪問したが、その時刻は大旨午後八時頃であり、大抵三〇分ないし一時間被害者宅に滞在したほか、本件旅行直前の休日にも見舞いのため被害者宅を訪問した。

(5) 昭和五四年三月に南越谷区画整理事業完成記念式典が行なわれる予定であったが、瑞男は、右式典に向けて、参加者の選定、越谷市所在のえびさわ商店との記念金杯の打合せ、記念碑建立の件で越谷市所在の中村石材店との打合せ、市長の挨拶文の作成等を自ら実際に計画し、多くの日曜休日を返上して準備を進めた。

(6) 昭和五三年一二月から昭和五四年二月にかけて、千間台土地区画整理事業及び東越谷第一区画整理事業に関し、瑞男は、地元住民との交渉のために中村部長と同行し、あるいは単独で地元を訪れ、地主等関係者との間で勤務時間帯はもちろん、土曜の午後や、深夜一〇時ないし一二時に至るまで長時間にわたって火の気もないような場所で激しいやりとりを行なったことが何度かあり、右交渉は、瑞男の心身の疲労を激しくするものであった。

(7) 右二か月半の瑞男の勤務時間の状況を示すと別表二及び三のとおりとなる。(次頁…編注)

(五) 本件旅行に関する瑞男の勤務状況

(1) 本件旅行の性格及び参加者

本件旅行の趣旨は、前記(四)(3)に述べたとおりであり、その参加者は、市側から助役、開発部長、開発部工務課長、評価委員一名、開発部管理課長瑞男、その部下である森田慎二係長(以下「森田係長」という。)の計六名であり、これに審議委員一一名が参加した。

(2) 本件旅行における各参加者の立場と瑞男の役割

本件旅行の参加者のうち、審議委員らは、招待された側であるので当然雑務には関与せず、助役は市長に代る市の最高責任者として、開発部長は本件事業を直接担当した開発部の最高責任者として、それぞれ名誉的儀礼的な参加者であって、本件旅行中は一切雑務に関与せず、また、残りの評価委員及び工務課長も、本件旅行の企画、立案及び遂行について何らの積極的役割を果さなかった。したがって、前記のとおり瑞男は本件旅行の企画立案すべてを行なったのみならず、本件旅行当日における実際の指揮、打合せ、手配等のあらゆる雑務を、時には森田係長を指揮して、すべて自ら手を下して遂行した。特に、本件旅行には、旅行会社の派遣するいわゆる添乗員が不在であり、その役割までも瑞男が自ら果さねばならず、各種交通機関の切符の手配、旅館の申込み、道中での弁当、飲物の手配、休憩場所及びその時間の設定、土産物店への案内、旅行参加者の希望を入れた可能な限りのスケジュール変更の判断等、すべてにわたる世話を自ら又は森田係長を指揮してとり行なった。加えて、参加審議委員中に八二歳の足の不自由な老人がいたため、瑞男は全旅行行程を通じ絶えずこの老人に注意を払って気遣ったほか、同人の階段の上がり下がり、バスの乗り降り、坂道の上がり下がりなどにおいては、これを背負ったり肩を貸したりして世話をした。

(3) 本件旅行における瑞男の精神的負担

瑞男は本件旅行の遂行にあたり次のような大きな精神的負担を受けた。

<1> 本件旅行は瑞男が実際に企画し、上司の承認を得て実行されたものであるので、参加者の満足を得られるよう遂行しなければならないとの気持ちが強く、常に参加者全員の意向を気にしていた。

<2> 本件旅行は、審議委員を招待しての市の企画による視察旅行であるため、市側の実務遂行上の代表者として審議委員の満足を得ることに常に気を遣わなければならなかった。

<3> 参加審議委員全員が地域の有識者有力者であるため、これに対する言葉使い、その接し方につき特別に気を遣う必要があった。

<4> 参加審議委員全員が平均年齢六五歳位と比較的高齢であったため、旅行行程が無理にならないようその都度、実際上各種の配慮をする必要があった。

(4) 旅行日程等

本件旅行出発当日から瑞男の死亡に至るまでの経過の概要は別表四(下表…編注)のとおりである。

(5) 本件旅行中の瑞男の具体的行動

(イ) 第一日目

瑞男は午前四時三〇分に起床し、出発の準備をし、軽く朝食をとって、同五時一五分頃自宅を出て途中中村開発部長と待合せのうえ東武線蒲生駅へ向った。集合時間は午前六時丁度となってはいたが、瑞男は本件旅行の企画者であり、且つ運営の責任者でもあったので早めの五時四五分頃当地に到着した。蒲生駅を出発したのは午前六時一五分頃であるからこの間約三〇分を瑞男は同駅にて順次集合してくる参加者を出迎え、挨拶をし、本件視察旅行参加への御礼を述べたりして過した。さらに予定していた審議委員一名が連絡のないまま予定時間に集合しなかったので急拠自宅への連絡等により参加の有無を確認したところ参加出来ないとのことで、あわてて団体切符の清算をした。午前六時一五分に蒲生駅を出発して電車を乗り継いで浜松町まで出て同所からモノレールで羽田空港に到着した。この一時間四五分程の飛行場へ到着するまでの間瑞男は参加審議委員等と雑談を交えながら、前記同様御礼の挨拶をしたりして過したが、その間も本件旅行の説明、乗継ぎの案内、さらには老齢審議委員のための座席の確保等にこまかく動きまわった。

羽田から熊本空港までは東亜国内航空の小型機に乗ったが小型であったことと風力、気圧の変化等のため途中何度も機体は激しく揺れ、参加者の多くは不快感を感じ、瑞男も本件が飛行機に乗る初めての体験であったため、不快感のみならず不安感も抱いた。

熊本空港を出発(午前一一時)した後、各地を見学し夕方雲仙九州ホテルに到着した(五時四五分)がこの全行程中(計六時間四五分)瑞男は絶えまなく休憩場所と時間の設定や、飲み物の世話や足の不自由な審議委員の世話等を自らこなした。

雲仙九州ホテルに到着したのが午後六時頃で、夕食を開始したのが同七時であり、この間僅か一時間程の間に瑞男は次の行動をとった。即ち<1>右ホテル到着後直ちにホテルチェックインの手続を済ませ、参加者の部屋割を決め、これを各人に通知した。<2>ホテル側と予め夕食時間等について確認をとった。<3>参加者全員が旅の疲れをいやすため入浴し雲仙の湯をゆっくり楽しんだが、瑞男は次の食事等の準備のため入浴を僅か五分程で切り上げた。<4>その後ホテル側と夕食会場の設定、料理の内容、酒、ビールの数等について申し合せをした。<5>さらに配膳前に予め夕食会場へ赴き着席位置、順位の設定、配膳数の点検をし手落ちがないか確認し必要な指示を与えた。

夕食は午後七時から始まり同八時三〇分まで続いたが、この間の瑞男の行動は<1>夕食開始にあたり挨拶に立ち、視察旅行初日の感想を述べると共に参加者への御礼及び今後の予定などを述べた。<2>参加者全員(とりわけ審議委員)の席に順次足をはこび酌をし、個別的に慰労の言葉をかけた。<3>この間随時都市計画事業全般について各人と意見交換をした。<4>瑞男自身合間を見て食事をした。<5>瑞男の飲酒量は日本酒二~三合程であった。夕食を終えたのが午後八時三〇分でそれから同一〇時三〇分までの二時間ばかりの間に瑞男は各審議委員の部屋を順次まわり、熊本の都市計画事業と越谷市のそれとの比較を中心に今後の越谷市の事業について、いろいろ話し合った。こうして瑞男が職務から解放されたのは午後一一時前であり、疲れていたので直ちに割り当てられた自分の合部屋に戻り午後一一時頃床についた。

右のとおり、瑞男は午前四時半ころから午後一一時ころまで約一九時間近くの間、休む暇もなく気を遣い続け働き続けたことになる。

(ロ) 第二日目

瑞男は午前五時半に起床し、参加者を伴って同六時から七時半までの一時間半、宿泊所付近の「地獄谷」を案内したが、二月中旬は、同所では一年中で最も寒冷な季節であるところ、この日はさらに平年より最高気温で四・六度、最低気温で二・六度それぞれ低く、また風速も平年一・二メートル毎秒のところ、この日は一・八メートル毎秒と強かった。

午前八時に朝食をとり同九時宿泊先を出発し諫早、佐世保、平戸の順で長崎の都市計画事業の見学を兼ねて各地を見学してまわった。宿泊先の旗松亭には午後四時半ころ到着した。到着後の会田の行動は、前日とほぼ同様であり、チェックインの手続、部屋の割り振り、食事時間の打合せ及びこれらの各事項の参加者への通知などを順次した。

夕食は午後六時より開始されることとなったが、瑞男は前日同様夕食会場の設定、食事内容の配慮等をするため夕食開始の三〇分前の同五時半位には既に夕食会場へ出向き、関係者に必要な指示を与えながら、準備に余念がなかった。夕食開始後の挨拶、酌まわり、意見交換等についても前日とほぼ同様でありこまかく気を使って動きまわっていたが、とりわけこの日は本件旅行の最後の夕食であった為、各委員の食膳では前日にも増して、丁寧に二日間にわたる労苦に対し、ねぎらいの言葉を遂一かけていた。この時における瑞男の飲酒の量は、前日同様日本酒二~三合程度であった。

夕食後午後九時ころから同一一時二〇分ころまで、瑞男は前日同様各審議委員の部屋をまわり、長崎の都市計画事業の視察を踏まえ、今後の越谷市の事業について意見を交換し合い、かつ各委員の積極的な協力を依頼した。会田はこの後約一〇分間程入浴し、同一一時四五分ころ床についた。

右のとおり、瑞男はこの日も午前五時半から午後一一時四五分ころまで約一八時間余りの間、本件旅行遂行のために働き続けたことになる。

2 瑞男の生活状況等

瑞男は身長一五二センチメートル、平常時の体重五二キログラム位の小柄でややほっそりした体型をしており、体質的にも強靱なタイプではなく、疲れ易く常時風邪をひき易い状態であった。そのため瑞男は睡眠時間には特に気を配り、平生八時間ないし九時間の睡眠時間をとることを心掛けていたが、開発部管理課に移ってからは仕事が多忙となり帰宅時間も遅くなったため、右睡眠時間を確保することが難しくなり慢性的疲労が蓄積する状態にあり、これは、昭和五四年初頭から一層悪化した。

瑞男の酒量は、つき合い上、週一度位市役所仲間と飲む場合には、日本酒二、三合程度、時折の晩酌の場合には日本酒一・五合程度でありいわゆるたしなむ程度であった。

また、瑞男と原告間の夫婦生活は極めて円満であり、家庭生活において精神的負担が生ずるような原因は何ら存在しなかった。

3 瑞男の病歴等

(一) 瑞男は日頃の健康管理方法として死亡の二年位前から越谷市袋山所在の国民健康保険越谷診療所(以下「越谷診療所」という。)に随時通い、肋間神経痛、風邪、疲労、血圧変動を対象に診療を受けており、その通院回数及び投薬期間は、昭和五二年二月から同年一二月までは五回、六二日間、昭和五三年一月から一二月までは一九回(一月三回、三月、四月各二回、五月、六月、八月、一〇月各一回、一一月五回、一二月三回)、一〇五日間であった。

(二) また、同所で測定した血圧の状況は別表五のとおりである。右血圧数値によれば、昭和五三年八月五日のものは高血圧に、同年一一月六日のものは境界血圧に、他の二回は概ね正常血圧にそれぞれ属するが、右のような高血圧から正常血圧までの変動は、瑞男の職務が右期間多忙であって、その疲労蓄積から生じたものである。

(三) また、瑞男は死亡二年位前より胸痛を訴えるようになり、その頻度及び激しさは開発部に移って以来増大し、とりわけ昭和五三年一二月から昭和五四年一、二月にかけて悪化した。右胸痛(肋間神経痛)悪化の一般的要因としては、疲労の蓄積が考えられ、瑞男が開発部に着任して以来、とりわけ死亡直前二、三か月の職務多忙による過労の度合は極めて高かったと考えられる。

(四) さらに、瑞男は、開発部に移って以来、元来の体力の乏しさと職務の多忙さから、疲労が蓄積する一方で、いわばいつもと言って良いくらい風邪をひいている状態となり、とりわけ昭和五三年一二月から昭和五四年二月にかけて区画整理事業について、関係地主宅の火の気のない土間で夜間長時間に及ぶ交渉したことが、瑞男の健康状態を一層悪化させたものである。

4 瑞男の死亡と公務との相当因果関係

(一) 瑞男の死因

瑞男の死因は脳卒中である。脳卒中の第一次的要因としては、高血圧症状が医学的に認められており、その血圧を著しく上昇させる原因として精神的、肉体的疲労、冬の寒い気象状況、気温の急激な変化などが確認されている。

そこで、瑞男の脳卒中の原因についてみると、瑞男は開発部管理課長就任以来、前記のようにかなりの激務をこなしており、これは従前の課と比べて時間外勤務の量も非常に増え、かつ動的でストレスの多い部署であったため、規則正しい生活サイクルを維持してゆくことは不可能であり、管理課長になってから徐々に体調を崩して行き、右傾向はとりわけ昭和五三年一二月ころを境に顕著となり、極度の疲労、ストレスの蓄積の影響で体調に著しい悪化をきたしながら、その状態から回復する時間的余裕もないまま本件旅行に参加したものであるが、本件旅行は、その内容、瑞男の随行責任者としての立場、旅行中の気温等数多くの点において、決定的に瑞男の基礎的健康状態、血圧を悪化させ、脳卒中を誘発せしめたものである。

(二) 瑞男の参加した本件旅行の公務遂行性

本件旅行は、さきに述べたように、南越谷区画整理事業の完成を記念して、これに貢献した審議委員の長年の労苦に対する慰安と審議委員及び市の担当者の今後の区画整理事業に対する視察を兼ねた公務出張旅行であり、瑞男は本件旅行に参加中に、宿泊先で脳卒中を発症し、死亡したものであるから、瑞男の本件旅行随行には公務遂行性があるというべきである。

(三) 瑞男の死亡の公務起因性

公務災害と認められるためには、右災害が公務遂行に起因することが要件とされているが、本件のような場合においては、発病前に特に過激又は異常な職務による精神的、肉体的負担が存在していることを要件とすることは、医学的見地及び労働の実態からみて合理性に乏しく、公務遂行が既存疾病と共同原因となって既存疾病を悪化させ死亡したと認められる場合であっても、右災害は公務に起因したものというべきである。したがって、瑞男の脳卒中による死亡は、仮に同人に既存疾病等他の原因があるとしても、公務遂行に起因したものというべきである。

五  原告の右主張(四B)に対する認否・反論

A

1(一)  同1(一)の事実は認める。但し、原告主張の業務は全国どの市町村でも行なわれている公務員としての通常の業務である。

(二) 同1(二)の事実のうち、同課長の責任が重いものであるとの点及び瑞男の負担が極めて大きいものであったとの点は争い、その余は認める。なお、瑞男が実際に担当していた五事業のうち三事業については、既に九五パーセント以上事業が進捗しており(進捗率・南越谷区画整理事業九九パーセント、千間台区画整理事業九八・七パーセント、東越谷第一区画整理事業九五・八パーセント、東越谷第二区画整理事業八〇・一パーセント、鷺高区画整理事業一〇パーセント)、近隣市の区画整理事業数と比較しても越谷市の事業数が多いものということはできず、瑞男が格別過重な負担を負っていたということはない。

(三) 同1(三)の事実のうち、瑞男の管理課長在職当時、越谷市の規定により瑞男の勤務すべき時間は午前八時三〇分から午後五時までとされていたこと及び昼休みの休憩時間が正午から午後一時とされていたこと、瑞男が市役所に到着後、管理職の立場及び山積する仕事量のために直ちに仕事にとりかかりひとときも休憩する間もないまま職務に精励することが通常であったとの点は認め、瑞男の起床から市役所到着前に関する事実及び自宅より弁当を持参していた点は不知、その余の事実は否認する。

ちなみに、越谷市の勤務時間は、埼玉県下のほとんどの市町村が週四四時間であるのに対し、週四一時間であり、一か月では約一三時間少ない。また、ほとんどの市町村の休憩時間が四五分であるのに対し、越谷市は六〇分の休憩時間を与え、職員の勤務条件に格別の配慮をしている。

また残業時間に関する原告の主張は失当であって、瑞男は通常は午後七時半前後には帰宅していたものである。仮に原告主張のとおりであるとしても、越谷市は他の市町村に較べ勤務時間数が一か月当たり約一三時間少なく、実質的な超過勤務時間数は月四五時間程度である。これは一日平均とすれば二時間に満たないものであって、瑞男の職務が特に加重であったということはできない。

(四)(1) 同1(四)の冒頭は争う。

(2) 同1(四)(1)の事実のうち冒頭から「午後七時までに終了することが多かった」との点は認め、その余は否認する。なお、議会の開催期間中であっても、自己の担当する職務との関連で答弁の準備をすれば足りるのであり、その対応のため一日中議会にかかりきりというものではない。また、会議時間延長の際にも課長職は必ずしも待機が求められてはいなかった。

(3) 同1(四)(2)の事実のうち「管掌事業の進展状況をとりわけ気にしていた」との点は否認し、その余は認める。

(4) 同1(四)(3)の事実のうち、冒頭から「公務出張旅行であった」との点は認め、その余は知らない。

(5) 同1(四)(4)の事実のうち、冒頭から「管掌事務であった」との点及び瑞男が被害者宅を六回訪問したとの点は認め、その余は知らない。

(6) 同1(四)(5)の事実のうち、昭和五四年三月に南越谷区画整理事業完成記念式典が行なわれる予定であったとの点は認め、その余は知らない。なお、右式典準備のための取組みの大枠については、部長と相談しながら瑞男が整理していたが、以後の標準的な事務処理は部下に指示し、担当が行なったものである。

(7) 同1(四)(6)の事実のうち、区画整理事業に関し、瑞男が、昭和五三年一二月二二日午後七時から同一〇時まで及び昭和五四年一月一六日午後七時から午前零時までの二回地主と交渉したことは認めるが、その余は否認する。

(8) 同1(四)(7)の事実は否認する。昭和五三年一二月から、旅行前日の昭和五四年二月一三日までにおける瑞男の時間外勤務時間の合計は、二七ないし三一時間にすぎない。また、右期間中にあたる昭和五三年一二月二九日から昭和五四年一月三日までのいわゆる正月休みの間、瑞男は自宅で休むなどしており、格別仕事をしていない。

(五)(1) 同1(五)(1)の事実は認める。

(2) 同1(五)(2)の事実のうち、本件旅行には旅行会社の派遣する添乗員が不在であったこと及び瑞男が森田係長を指揮して手伝わせたことは認め、瑞男が本件旅行の企画立案すべてを行ない、本件旅行当日における実際の指揮、打合せ手配等のあらゆる雑務をすべて自ら手を下して遂行した点は否認する。その余は知らない。

(3) 同1(五)(3)の事実は否認する。なお、本件旅行参加審議委員の平均年齢は六〇歳である。

(4) 同1(五)(4)の事実は概ね認めるが細部は知らない。なお、瑞男の死亡時刻は前記のとおりである。

(5) 同1(五)(5)(イ)の事実のうち、「熊本空港を出発」から「僅か一時間の間に瑞男は次の行動をとった。」までの点、瑞男の入浴時間が僅か五分程であった点及び「瑞男が午前四時半ころから午後一一時ころまで約一九時間近くの間、休む暇もなく気を遣い続け働き続けた」との点はいずれも否認し、その余は知らない。瑞男の入浴時間は一〇分ぐらいである。

同1(五)(5)(ロ)の事実のうち、瑞男が地獄谷を参加者と一緒に散歩したこと及び「午前八時に」から「午後四時半ころ到着した」までの点は認める。瑞男が参加者を伴って地獄谷を「案内した」との点及び「この日も午前五時半から午後一一時四五分ころまで約一八時間余りの間、本件旅行遂行のために働き続けた」との点は否認する。その余の事実は知らない。地獄谷散歩の際、瑞男に格別の異常はなく、長崎雲仙地方の平年と当日の気温等の状況を比較することは意味がない。

ところで、本件旅行の行動スケジュール、交通機関、旅館の手配等はすべて旅行代理店が準備したもので、瑞男らは、その計画に従って日程を消化したにすぎない。また、九州における移動はすべて旅行代理店が準備したバスガイド付きの貸切バスを利用し、途中で何等のトラブルも発生しておらず、本件旅行はいわば観光旅行ともいうべきもので、瑞男にとって、特別過激な業務であったとは言えない。

2  同2の事実のうち、瑞男が「開発部管理課に移ってからは仕事が多忙となり帰宅時間も遅くなったため、右睡眠時間を確保することが難しくなり慢性的疲労が蓄積する状態にあり、これは、昭和五四年初頭から一層悪化した」との点は否認し、その余は知らない。

3(一)  同3(一)の事実のうち、瑞男が日頃の健康管理方法として死亡の二年位前から、越谷市袋山所在の越谷診療所に随時通い診療を受けていたことは認めるが、その余は争う。

(二) 同3(二)の事実のうち、診療所の記録に、別表五の血圧に関する記載があることは認め、その余は否認する。

(三) 同3(三)の事実のうち、「胸痛(肋間神経痛)悪化の一般的要因としては、疲労の蓄積が考えられ、瑞男が開発部に着任して以来、とりわけ死亡直前二、三か月の職務多忙による過労の度合は極めて高かった」との点は否認し、その余は知らない。

(四) 同3(四)の事実は否認する。

B  瑞男の従事した職務は、脳梗塞を発症せしめるに足りる過激な業務、異常な業務であったということはできず、瑞男には脳梗塞を発症するような重大な体質的要因、素因がありそのために死亡したものである。

第三証拠関係(略)

理由

一  本訴の適否関係

請求の原因1の事実は当事者間に争いがない。

二  本件処分の適否関係

そこで、瑞男の死亡を公務災害とは認められないとした本件処分が正当かどうかについて、検討することとする。

A  瑞男が越谷市役所管理課長としての昭和五四年二月一六日早朝、公務出張先の宿舎である長崎県平戸市大久保町二五二〇番地所在の旗松亭において意識不明となっているところを発見され、同月二一日長崎県佐世保市戸帳町四番五号医療法人白十字会佐世保中央病院において脳卒中により死亡したことは当事者間に争いがなく、成立に争いない(証拠略)によれば瑞男の死亡時刻は昭和五四年二月二一日午前三時一〇分であったことが認められる。瑞男の死亡が公務遂行中の死亡といえることは被告も認めているところである。

B  そこで、瑞男の死亡は公務と相当因果関係がないといえるかどうかについて検討することとしたい。

1  瑞男の勤務状況等

(証拠略)弁論の全趣旨を総合すると次の事実が認められ、これを覆すに足る証拠はない。

(一) 瑞男の略歴

瑞男は、昭和三一年三月中央大学法学部を卒業し、同年五月から越谷市役所職員に採用され、総務課、水道課、都市計画課、福祉部保健年金課等にそれぞれ配属された後、昭和五三年四月より開発部管理課の課長に就任し、以来右職務に従事してきた。

(二) 越谷市開発部の組織及び業務内容

昭和五三年四月当時、越谷市開発部には、管理課、工務課、都市計画課、開発指導課の四つの課があり、前二課は都市計画事業及び土地区画整理事業に関する業務を、都市計画課は都市計画の策定や街路等に関する業務を、また、開発指導課は家屋の建築及び開発行為の許可手続に関する業務をそれぞれとり行なっていた。このうち、瑞男が課長を務める管理課は、開発部長の庶務事項を担当する筆頭課とされ、前記の業務の他、開発部長の指示にもとづき、管理課長の手許で予算編成のための予算書の整理及び議会に対応するための関係書類の整理が行なわれることとされていた。また、右当時、管理課には管理係、換地係、補償係、公園緑地係の四つの係が存在し、右各係長を含め約三〇名の職員が勤務していた。開発部の業務は、市役所内の他の部署に比して動的で、市民財産の処分に関係するため、事案に対する判断事項が多いという特徴を有しており、この中で特に管理課の業務は、都市計画の決定手続に始まり、土地区画整理事業に関する法の精神にもとづいて権利者の財産等の処分行為を行なうものであるため、個々の権利者からの質問や意見が寄せられる機会が多く、同課課長及び担当職員がその対応に苦労する状況にあった。

ところで、開発部においては、土地区画整理事業が主たる業務の一つとされており、右当時<1>南越谷区画整理事業<2>千間台区画整理事業<3>東越谷第一区画整理事業<4>東越谷第二区画整理事業<5>南部地区区画整理事業<6>鷲高区画整理事業の計六つの事業が併行して推進されており、このうち都市計画課が担当した<5>を除く五つの事業を管理課が担当していた。昭和五三年当時の右各事業の進捗率は、<1>が九九パーセント、<2>が九八・七パーセント、<3>が九五・八パーセント、<4>が八〇・一パーセント、<6>が一〇パーセントであったが、土地区画整理事業においては、換地処分終了後の清算事務の完了に至るまで非常に難しい問題が残るのが一般であって、右進捗率が大きいからといって、必ずしもこれに要する事務負担量が減少するという関係にはなかった。

(三) 瑞男の通常の勤務状況

瑞男が管理課長に就任した昭和五三年四月から越谷市定例市議会が始まる直前である同年一一月末ころまでの同人の勤務状況の概要は次のとおりであった。

瑞男は、午前六時ないし六時三〇分ころ起床し、午前七時ころから一五分間位、自宅において、当時開発部長であった中村正男との間で電話にて、前日の職務の報告や当日の職務の事前打合せを週二、三回(同年一一月ころからは週五回位)行なった後、午前七時四〇分ころ乗用車で出勤し、午前八時ないし八時一五分ころ登庁した。越谷市の規定上、職員の職務すべき時間は午前八時三〇分から午後五時(土曜日は正午)までとされ、この間である正午から午後一時までの一時間がいわゆる昼休みの休憩時間とされているが、瑞男は、登庁後直ちに仕事にとりかかることが多かった。瑞男は、昼食については、大半を自宅より弁当を持参して職場において食べていたが、管理課は他の部署に比して昼休み時に地権者等の訪問を受けることが多く、また、仕事上の電話がかかってくることも多かったため、昼休み時間中であっても瑞男にとっては必ずしも職務から開放されて十分休息をとるということはできない状態にあった。また、平日については、前記勤務終了時とされる午後五時に退庁することはほとんどなく、早い場合には午後六時ころであったが、午後六時ないし午後八時の間に退庁することが最も多く、時には退庁が午後九時以降となることもあった。そして、帰宅後においても、瑞男は、早朝におけるのと同様、中村開発部長との間で翌日の仕事の打合せ等を時折電話ですることがあった。

特に、瑞男の管理課長就任時には、鷲高区画整理事業に関して仮換地指定前の予定指定を越谷市が行なったところ、土地所有者からの異議申立が六四件あり、そのすべてが管理課長の解決範囲となったため、瑞男はその後の仮換地指定をめぐる交渉等において解決に相当苦労することとなった。

(四) 瑞男の本件旅行直前の勤務状況

昭和五三年一二月から瑞男が本件旅行に参加した昭和五四年二月中旬までの同人の勤務状況の概要は次のとおりであった。

(1) 昭和五三年一二月の越谷市定例市議会は同月四日から二六日まで開催されたが、瑞男は、開発部筆頭課長の立場にあったため、右議会の開催に備えて、他課長が整理した答申などを基に、開発部における土地区画整理事業をはじめとする業務の報告や議会での質疑に関する応答準備、市の責任追求に対する事情説明の打合せ、関係有力市議会議員との事前折衝やいわゆる根廻し等を行なった。また、議会の開会中は、議会における答弁等に備えて部長職は絶対的に待機することとされていたが、課長職にも常任委員会等における答弁の機会等もあるため、原則として議会の開会時間中、待機することが要請されており、瑞男も大半の場合、右議会が終了する時刻まで市役所内において待機した。ところで、右議会開催中、問題点が生じたため、同月一五日ないし二六日の間、七回にわたり午後八時以降まで開会時間が延長され、うち三回は一二時近くに及ぶ事態となり、これに伴ない、瑞男も右議会閉会に至るまで原則として待機することを余儀なくされることとなった。

このほか、市議会関係の仕事として、越谷市の昭和五四年三月定例市議会における越谷市長の施政方針演説の草稿作成を市長から依頼された中村開発部長の指示により、瑞男は、同部長と共に、本件旅行直前である昭和五四年二月はじめころから約一〇日間にわたり、同部長宅などで比較的長時間をかけて右草稿の作成作業を行なった。

(2) 昭和五三年一二月二五日に、越谷市が管理する住吉新生公園内で、市職員が草取り作業に従事中、放り投げた石が、遊んでいた子供の頭にあたり裂傷を与えるという事故が発生したが、公園の管理は瑞男の管掌にかかる公園緑地係の担当事務であったことから、瑞男は、管理職としての立場上、自ら中心となって被害者の両親と右事故の示談交渉にあたることになった。瑞男は、右事故発生後から本件旅行前まで合計六回にわたり単独又は中村部長と共に、夜間、市役所から約二・五キロメートル位離れた被害者宅を訪問し、毎回約三〇分ないし一時間にわたって被害者の父親等と示談のための交渉を行なったが、その進展は必ずしもはかばかしくなく、瑞男はその処理に苦労した。(なお、右示談は瑞男の死後である昭和五四年三月二三日に至り成立した。)

(3) また、この二か月半の時期においては、当時進行していた五つの土地区画整理事業のうち、特に千間台及び東越谷第一の二つの区画整理事業に関し、大きな懸案事項が生じ、瑞男はその対応に苦慮した。すなわち、千間台に関しては、土地区画整理事業区域内に日本住宅公団の開発計画があり、同公団の盛土運搬車両を搬入する必要が生じたが、市側と権利者である地元住民との間で意見の相違が生じたため、瑞男は単独で又は中村部長と共に数度にわたり夜間等に地元代表者宅を訪れ交渉を続け、特に昭和五四年一月一六日には深夜一二時まで地元代表者宅の土間で激しいやりとりも交えて熱心に話し合ったが解決に至らなかった。また、右区画整理事業に関しては、市は、同公団との間でも開発地区内の保留地の買取り問題があり、瑞男がその交渉にあたったが、昭和五三年四月一二日から昭和五四年一月一六日まで計七回に及ぶ話し合いにもかかわらず、契約を締結するまでには至らなかった。

次に、東越谷第一に関しては、市と地元住民との間で新町名の設定問題及び集会所の建設、使用問題が生じ、瑞男は、前者に関しては、昭和五三年一二月二日に、後者に関しては、同月一四日、二二日及び昭和五四年一月九日にそれぞれ地元住民と話し合いの機会をもったが、いずれも解決することはできなかった。

(4) 昭和四三年から約一一年にわたり施行されてきた南越谷区画整理事業の完成記念式典が昭和五四年三月四日に市の主催で行なわれる予定であったが、瑞男は、本件旅行出発前に右式典の準備作業に従事した。すなわち、右事業の竣功記念碑の案文の起案を自ら行ない、担当係と協議のうえ、右事業完成に伴う記念誌、記念品送付の挨拶文を作成し、あるいは、右事業竣功記念碑作成のため中村石材店や記念品の用件でえびさわ商店を夜間や休日等にも度々訪問した。そのほか、瑞男は、右記念式典の式次第の検討、来賓者の範囲の策定、式典後のパーティの飲食関係の手配等の作業を自らあるいは担当者の報告にもとづきとり行なった。

(5) 本件旅行を控えた二月四日・同一一日は日曜日であるのにかかわらず、テニスコートの効率的な利用を図るため、利用者側との交渉に当った。

(6) 本件旅行は、南越谷区画整理事業の竣功を記念してこれに貢献した審議委員の長年の労苦に対する慰安と、審議委員及び市の担当者の今後の区画整理事業に対する勉学のための視察を兼ねた公務出張旅行の性格を有するものであったが、瑞男は、昭和五三年一〇月ころから、自ら中心となって本件旅行がその目的にかない、しかも審議委員らの満足するものとなるよう旅行先の選定作業その他の企画立案に苦労して取り組み、旅行先、旅行日程等について、土地区画整理審議会の協議により承認を得た後は、旅行会社との打合せや視察先からの資料の取寄せ等の作業に従事した。

(7) この間の瑞男の勤務時間の状況は概ね別表二および三のとおりである。

(五) 瑞男の休暇取得状況

瑞男が昭和五三年四月に開発部に移ってから、本件旅行前に至るまでの年次休暇及び特別休暇の取得状況は別表六(下表…編注)記載のとおりであった。

2  瑞男の本件旅行中の行動等

(証拠略)を総合すれば次の事実を認めることができこれを左右するに足りる証拠はない。

(一) 本件旅行の参加者及び役割

本件旅行には、市側から助役、開発部長である中村正男、開発部工務課長、評価委員一名、開発部管理課長である瑞男、その部下で管理係長である森田慎二の計六名と審議委員一一名の合計一七名が参加した。市側参加者のうち、助役は、審議委員の相手を務めながら総括責任者として、中村部長は、本件旅行を円滑に進行させるための事務責任者として、また、瑞男は、本件旅行に関する諸事務を実際に遂行する者として、そして、森田係長は、瑞男の事務を補佐する者としての役割をそれぞれ担当することになっていたが、次に述べるように、本件旅行遂行にあたりその大半の事務処理を中心となって行ったのは瑞男であり、森田係長は、瑞男の指揮等にもとづき瑞男と協力してその任にあたって、また、工務課長は、瑞男の業務の一部の手伝いをしたにすぎなかった。なお、評価委員は、市の職員ではあるが、他の者と異なる立場で参加したため、本件旅行業務の手伝い等はしなかった。他方、本件旅行に参加した審議委員の多くは六〇歳を越え、中には八〇歳を越える者もあったが、これらの審議委員はいずれも本件旅行に関する雑務を担当する立場にはなかった。なお、本件旅行には、旅行会社等から添乗員は派遣されなかった。

(二) 本件旅行行程と瑞男の行動

(1) 第一日目(昭和五四年二月一四日)

瑞男は、午前四時三〇分ころ起床し、同五時三〇分ころ自宅近くで待ち合わせていた中村部長と一緒に自動車で出発し、本件旅行の集合場所である東武線蒲生駅東口に到着した。瑞男は同所で本件旅行参加者の受付をしたが、参加予定者である審議委員の一人が急遽欠席することが判明したため、その自宅に確認の連絡をとり、また森田係長と協力して、右切符等の清算手続に奔走した。一行一七名は、同六時一五分ころ同駅を電車で出発し、仲御徒町、浜松町を経由して、羽田空港に至った。同八時四五分ころ、右空港から熊本行の飛行機に搭乗し、同一〇時三五分ころ熊本空港に到着した。瑞男は、これまで飛行機に搭乗した経験がなく初めての九州旅行で飛行機を利用することに不安を抱いていたが、右飛行は小型機であり気圧の関係で激しく揺れたため、これを一層気にした。一行は、同一一時ころ熊本空港よりガイド付きの貸切バスにて熊本市内の視察、見学に出発し、(なお、以後の移動の大半はバスが利用された)熊本城を経て正午ころ水前寺公園で昼食をとった。その後、宇土、三角、松島などを見学し、午後四時五分ころ三角港フェリーボートで島原に向かい、同五時五分ころ島原に到着し、同六時ころ宿泊予定先であった雲仙九州ホテルに到着した。右視察、見学の間、瑞男は森田係長の協力を得て、本件旅行参加者に対し、バスの乗降や休憩時間等について指示を行い、審議委員らがバスの乗降をする度にこれに手を貸して助けた。また、一行が食堂において昼食をとる際には、食券等の手配をし、さらに一行が土産物店に立寄り手荷物が増えた場合には、進んで審議委員らの荷物の運搬を手伝い、あるいは、各見学場所等で一行の記念写真を撮影するなどの雑務を行なった。とりわけ、参加者中に八十数歳の足の悪い審議委員がいたため、瑞男は、同委員が駅の階段や見学先の坂道などを昇り降りする際には、怪我がないよう随所で肩や手を貸し、同委員が土産物を購入した際にはその持ち運びを申し出るなど極力同委員の身の回りの世話係を務めた。

瑞男は以上のような様々な気配りを伴う諸事務をとり行なったため、一行の視察見学中は、交通機関による移動時を含めて容易に休憩し難い状況にあった。

前記ホテルに到着後、瑞男は直ちにホテルチェックイン手続をしたうえ、参加者の部屋割りを決定してこれを各人に通知し、これに従って参加者が入室したのちは、これら四ないし五の各部屋をまわって参加者の労をねぎらいながら、夕食開始時間や翌日の予定を各人に知らせた。夕食の宴会が始まるまでの間、参加者は入浴等をしたが、瑞男は入浴を一〇分間程度で切り上げ、この時間を利用して宴会会場に入り、配膳の準備が完全に出来ているか、不足な物はないか、あるいは参加者の席順をいかにするかなどの点について心を砕いた。宴会は、午後七時ころから参加者が一堂に会して行なわれたが、瑞男は、その司会進行役を務めた。すなわち、宴会の冒頭にあたっては、挨拶に立ち、開会を告げると共に、当日の旅行の疲労をねぎらい、次いで、審議会会長をはじめとする者に挨拶や乾杯の音頭をしてもらうための指名を行なった。その後瑞男は、審議委員の席を順にまわって個々の審議委員に酌をしながらその慰労と懇談に務め、宴会が中盤にさしかかると、場を盛りあげるために、自ら率先して歌を歌い、また他の者に余興を依頼するための指名をしたりした。さらに、頃あいを見計らって、森田係長と共に酒の追加注文などにも心を配った。右宴会には酌婦も二人ほどついたものの、以上のように瑞男は、いわゆるサービス係に徹していたため、自らの席で落ち着いて飲食するということは困難な状況であった。

宴会は、午後八時三〇分ころ散会となり、参加者は各自の部屋に戻ったが、瑞男は、その後も引き続き各部屋を順に訪ね、審議委員らと酒を汲み交しながら、視察地における土地区画整理事業と越谷市における土地区画整理事業を比較し、越谷市の今後の都市計画事業の推進における考え方などについて意見の交換を行なった。瑞男は、午後一〇時三〇分ころ、審議委員らとの懇談を終えて自室に戻り、午後一一時ころ就寝した。

(2) 第二日目(昭和五四年二月一五日)

瑞男は、午前五時三〇分ころ起床したが、審議委員らが宿泊先近くにある地獄谷を見学することを希望したため、それまでに予定されていなかったもののこれを案内することとし、同六時ころ、見学を希望した審議委員、森田係長、工務課長らと一緒に地獄谷を見学しながら散歩をした。当日長崎地方は寒波に見舞われたために、かなり寒さの厳しい状況であった。瑞男は、右見学を終えて同七時三〇分ころホテルの部屋に戻ったが、間もなく、当日の朝食時間と場所についてホテルに確認したうえ、森田係長と共に各審議委員に対してその旨の連絡をして回った。一行は同八時ころ朝食をとり、同九時ころバスにて雲仙を出発し、諫早を通過して同一一時ころ長崎市内に入った。一行は、同市において、都市計画事業の視察を終えたのち、平和公園をはじめとする観光地をめぐって記念撮影をしたり、土産物店で買い物をするなどした。この間瑞男は、前日同様、足の悪い審議委員の介助を含め、森田係長と共に審議委員らの世話役を務めた。その後、一行は長崎市を出発し、佐世保市を通過して、ほぼ予定通り午後四時三〇分ころ宿泊予定先である平戸市内の旗松亭に到着した。

瑞男は、前日同様チェックイン手続や参加者の部屋割り等を行ない、各審議委員に宴会場の場所や夕食の時間を連絡してまわった。次いで瑞男は、他の参加者が休憩や入浴をしている同五時三〇分ころには宴会場に赴き、開宴の準備並びに打合せを念入りに行なった。宴会は、同六時ころから始まったが、瑞男はこの日も司会進行役をつとめ、夕方開始後は、酌婦も入っていたものの、自ら各審議委員の食膳をめぐって、酌をしながら二日間の旅行の労苦をねぎらい、懇談するなどしてその相手をつとめた。宴会は賑やかに行なわれたため、瑞男は助役及び中村部長と協議して終了予定時間を三〇分延長し散会は同九時ころとなった。瑞男は、審議委員らが宴会場を引き揚げる際には、酒好きの者に、酒を持参させるなどの気配りもした。その後、瑞男は審議委員の各部屋まで出向き、審議委員に酌などしながら、越谷市政及び都市計画事業についての協力を要請し、また、各委員が就寝できる状態になっているのを確認したのち、同一一時二〇分ころ自室に戻り、入浴をし、午後一一時四五分ころ就寝した。

(3) 第三日目(昭和五四年二月一六日)

午前五時ころ、同僚が、瑞男のいび気が高いのに気付き、同七時ころになっても瑞男が目をさまさないため声をかけたところ、蒲団からはい出し畳の上に横になったままでいびきをかき尿失禁をしており意識がない状態であった。同僚らは瑞男の異常に気づいて医師を呼び、同八時ころ近隣の吉田医師の往診を受けさせたが、瑞男は意識不明で右片麻痺がみられたため、同医師は直ちに、平戸市内の重久医院に紹介して受診させた。その後、救急車で佐世保中央病院に転送され、午後零時四〇分ころ同病院に到着し、以後前記死亡に至るまで同病院で宮本保輝医師の診療を受けた。

3  瑞男の健康状態等

(証拠略)を総合すると次の事実を認めることができ、これを左右するに足る証拠はない。

(一) 瑞男は、昭和四〇年ころから風邪や頭痛の治療のため越谷診療所の高橋敬夫医師(以下「高橋医師」という。)の診療を一、二か月に一度くらいの割合で受けていたが、その回数は次第に増加し、昭和五一年ころには、一か月に一、二度となりそれ以降さらに同医師の診療を受ける回数は増加した。昭和五三年初頭から、死亡に至るまで瑞男が越谷診療所において診療を受けた回数は、一月に三回、三月及び四月に各二回、五月、六月、八月、一〇月に各一回、一一月に五回、一二月に三回の計一九回であり、その主訴は、風邪や肋間神経痛であった。これに対し高橋医師は、投薬や注射等の治療を行なうと共に、その原因が瑞男の職務熱心さによる睡眠不足と過労にあるものと診断し、瑞男に対してよく休養をとるようにと時折指示を与えていた。また、瑞男は右受診の際、血圧測定を時々受けていたが、その測定日及び測定値は別表五のとおりであった。これに関し、高橋医師は、昭和五三年一一月八日に瑞男に対し、血圧の変動が著しいので爾後再々測定し注意する様にと話したが、瑞男の血圧は高血圧症と名付けるほど血圧の高い状態が継続していなかったため、血圧降下剤等による血圧の治療は行わなかった。また、高橋医師は、継続的に瑞男の診療にあたった過程で尿検査やレントゲン検査等も行なったが異常は認められず、上記以外の点について瑞男の身体について持病や異常所見を認めなかった。

(二) 瑞男は、必ずしも自ら頑健な方であるとは認識していなかったため、十分な睡眠時間をとることを常々心がけており、昭和五三年四月に開発部に入るまでは午後七時くらいまでに帰宅し、午後九時三〇分ころには就寝しており、八時間ないし九時間を睡眠時間として充てる習慣であった。ところが、開発部に勤務後は、前記認定のとおり帰宅時間が不規則となり、これに伴ない従前の就寝時刻及び睡眠時間を守ることが困難な状態となった。とりわけ瑞男は昭和五三年一二月末ころ及び翌年二月ころにはよく眠れない状態となり、また、昭和五三年一二月ころからは夜中に着換えを必要とするほどの激しい寝汗をかくようになり、翌年一月ころからは、これが毎日のようになった。ところが、瑞男は福祉部保健年金課在職のころから年に数回位胸痛を訴えていたが、開発部に勤務するようになってからは次第にその回数が増え、昭和五四年一、二月には週に数回の割合となった。このため瑞男は胸痛の治療薬として、昭和五三年夏ころからアリナミンを連用していた。また、瑞男は、同年一一月ころから時折胃の重苦しさを覚えるようになり、このような時にはニッサンガロール錠を服用していた。さらに瑞男の普段の体重は五二キログラム位であったが、昭和五三年一二月の定例市議会終了直後は四九キログラムに、また、昭和五四年二月初めころには、四七キログラムにまで減少していた。そして瑞男は、従前は、疲労を口にすることはなかったが、開発部勤務後は、常時疲れた旨を原告に告げるようになり、昭和五三年一一月ころ及び同年一二月の定例市議会終了後には、「あまり疲れるので管理課をやめたい。」などと原告にこぼすことがあり、さらに、昭和五四年二月初めころ、瑞男にやつれと疲労の色があったため、原告が人間ドック入りを勧めたところ、瑞男はこれに同意し、あわせて医者にもかかりたい旨答える状態であった。

(三) 瑞男は、福祉部保険年金課に在職していた昭和五二年ころから晩酌をするようになり、昭和五四年四月に開発部に移ってからも、帰宅時間が早かった場合には夕食の際日本酒一・五合位を飲んでいた。なお、瑞男の喫煙量は一日煙草一本程度であった。

4  公務上の死亡の意義

地方公務員災害補償法三一条における「職員が公務上死亡」した場合とは、国家公務員災害補償法一五条、一八条におけるのと同様に、職員が公務に基づく負傷又は疾病に起因して死亡した場合をいい、右負傷又は疾病と公務との間には相当因果関係が必要であり、その負傷又は疾病が原因となって死亡事故が発生した場合をいうと解すべきである(最判昭和五一年一一月一二日、最高裁判所裁判集民事一一九号一八九頁参照)。しかしながら、右相当因果関係が認められるためには、死亡の原因となった負傷又は疾病の発生が公務に従事したことを唯一の原因とすることまでを必要とするものではなく、公務とは無関係の他の原因、例えば被災職員が既存の疾患(いわゆる基礎疾患)を有していたような場合であっても、公務の遂行が基礎疾患を憎悪させるなど公務が疾病発生の相対的に有力な原因であると認められる場合には、被災職員がかかる結果を予知しながらあえて公務に従事するなど災害補償の趣旨に反する特段の事情が認められない限り、右疾病を公務に起因するものと解するのが相当である。そして、本件のように脳卒中のような循環機能障害疾病にあっては、後記のとおり、その要因が、必ずしも突発的、異常な出来事によるものとは限らないのであるから、死亡災害の公務起因性を判断するにあたっては、相当期間にわたる公務の継続によって徐々に疲労が蓄積し、かくて蓄積された著しい疲労、公務による身体的肉体的ストレスが相対的に有力な原因となって循環機能障害を発生させたと認められるときは、公務上の災害に該るものと解される。以下、この立場から検討することとする。

5  瑞男の死因

(一) (証拠略)を総合すれば次の事実を認めることができ、これを覆すに足る証拠はない。

(1) 瑞男は、昭和五四年二月一六日午後一二時四〇分ころ佐世保中央病院に運び込まれ、直ちに宮本医師の診察を受けたが、当時における瑞男の症状は、意識レベルは深昏睡状態で時々両側性に徐脳硬直性痙攣がみられた。また、眼には共同偏視があり、瞳孔は左がピンポイント様、右がほとんど対光反射のない状態であり、胸部の心音等に関しては、心尖部に収縮期駆出音、両側肺野部にいびき様の呼吸音があった。さらに、バビンスキー反射も認められた。以上の所見等から、宮本医師は、瑞男が脳卒中であると判断したが、さらに頭部のコンピューター断層撮影(いわゆるCTスキャン)を施行して検査した結果、瑞男の左の脳には著明な浮腫がみられ、右の脳をかなり圧迫している状態であって、右浮腫の部位は低濃度領域をなしており、脳出血の場合に通常出現する高密度領域が認められなかったため、瑞男の病名は脳卒中のうちの脳梗塞であると診断したが、これが脳血栓、脳塞栓のいずれに該当するかについてまで判断することはできなかった。なお、瑞男の死後、死体解剖は実施されていない。

(2) ところで、医学の分野では、脳梗塞は、脳血栓及び脳塞栓の総称であって、いずれも脳血管の閉塞によって脳組織が壊死に陥る場合をさすが、前者は、脳血管の閉塞原因が脳血管部分の病変に由来するもの、後者は、脳以外の部分でできた凝血等が血中を流れて脳血管につまることによって生ずるものとされている。そして、脳梗塞の主要な発症要因としては、老化等に伴なう脳動脈のアテローム硬化や細小動脈の血管壊死等の血管病変があることのほか、凝固能や血液粘度等に関する血液性状の変化、高血圧症、習慣的飲酒及び喫煙、塩分の過剰摂取、対人関係等の心理的ストレスや、気候の変化、雑音等の物理的ストレスの蓄積などがあげられている。そして、この中でも、脳梗塞発症のいわゆる引き金として、ストレスが重要視されており、このストレスは、遊離脂肪酸やカテコールアミン、コレステロールを血中において増加させ、副腎皮質ホルモンの増減等に影響を与えることによって脳梗塞発症の要因となるものと考えられている。そのため、気温の変化等の物理的ストレスにおいても、必ずしも生体に対し即時に影響を与えるものとは限らず、一定の時間経過後に影響したり、ストレス解消後もその影響が持続したりすることもあると考えられている。

(二) (一)(1)に認定したところからすれば、瑞男の死因は左の脳の重度な脳梗塞とみられるが、その発症原因について検討することとする。

(1) 瑞男はさきに3で認定したとおり、風邪をひき易い体質であり、風邪及び肋間神経痛治療のため比較的頻繁に越谷診療所に通院して高橋医師の診療を受けていたこと、その際、瑞男は時々血圧の測定を受けていたが、その測定値は高血圧から正常血圧の領域を推移し、変動が激しかったものの、未だ高血圧症と名付けるほどのものではないこと、その他、瑞男は、肋間神経痛や胃痛のため適宜家庭において常備薬を服用することはあったものの、高橋医師による諸検査によっても特に異常な所見は認められていないことなどの事実に照らすと、瑞男は、本件旅行前までの時点において、自然増悪によって脳梗塞を容易に発症せしめるに足るほどの基礎疾患を有していなかったものと認められる。

(2) そこで、瑞男のその他の脳梗塞発症原因について検討するに、さきに1で認定したとおり、瑞男は、昭和五三年四月に開発部管理課長に就任してからは、従前の職務に較べて著しく多忙となり、これに伴なって超過勤務時間も増加したため従来の就寝時間の遵守及び睡眠時間の確保が困難となり生活様式の変更を余儀なくされたこと、管理課の職務は特に地権者や地域住民との対外折衝が多く、市側の対応として特別の配慮が要請されるものであったこと、とくに瑞男は管理課長就任当初から、その当時懸案となっていた鷺高区画整理事業等の問題に取り組むこととなり、とりわけ昭和五三年一二月ころからは、千間台及び東越谷区画整理事業に関し、地元住民や日本住宅公団と越谷市との間の交渉が難航し、瑞男は本件旅行直前までその対応に苦慮していたこと、また、昭和五三年一二月の定例市議会開催期間中、特にその後半において、瑞男は管理職として比較的長期間の議会待機を続けることになったこと、さらに、同月二五日には公園内における人身事故が突発的に発生したため、瑞男は日常の業務に加えて本件旅行前に至るまでその処理にあたったこと、加えるに、瑞男は、昭和五三年秋ころから本件旅行の立案、手配等に従事し、年が明けてからは、三月に押し迫った南越谷区画整理事業の完成記念式典の準備のため奔走したこと、また、本件旅行直前には、市長の施政方針演説の草稿の作成作業にあたったこと、夜間や、土曜午後、日曜などの時間外勤務も少なくなかったことなどの諸事実が認められ、これらを総合すれば、瑞男は、本件旅行に出発する前の段階において、既に、その多忙な職務に由来する相当程度の慢性的疲労状態に陥っていたものと考えられる。なお、さきに認定した瑞男の休暇取得状況によれば、瑞男はある程度の回数、休暇を取得していた事実は認められるものの、これも昭和五三年四月三、四日と夏期特別休暇を除けば、一時間から長くて一日程度にすぎず慢性的疲労を回復させるに足るものであったとは認められないし、翻って本件において瑞男が長期の休暇を取得しなかったことから、直ちにその疲労の程度が少なかったものとみることは相当ではなく、疲労の状況は、実際に瑞男が勤務した状況を中心として考察されるべきである。

(3) さらに、前記2で認定したように、本件旅行は、埼玉県より九州熊本、長崎地方という遠路を二泊三日で視察するという強行な日程であったところ、瑞男は、総勢一七名が参加した本件旅行の実質的遂行責任者として、移動中にあっては足の悪い審議委員の世話を含め、バスの乗降、荷物の運搬、写真撮影等細かな雑務に至るまで率先して行ない、宿泊先においては、宴会の準備係及び進行役を務め、あるいは審議委員の各部屋をまわって懇談するなど、丸二日間にわたり早朝から夜遅くまで立ち働いたこと、瑞男は九州への旅行及び飛行機の搭乗が初めての経験であり、しかも往路の飛行機が激しく揺れたため不安を抱いたこと、さらに旅行二日目には長崎地方が寒波に見舞われたことなどの事実があり、これらによれば、瑞男は、本件旅行に参加したことにより、従前の疲労に増してさらに精神的、肉体的疲労が深まりその程度は、旅行第二日目の終了時点において最高度に達していたものと推認できる。

(三) そうすると、瑞男の脳梗塞の発症は、開発部管理課における多忙な業務、特に、昭和五三年末及び同年度末の多種多様な業務が、瑞男を慢性的疲労状態に陥らせ、さらにこれに本件出張旅行における業務遂行に際しての著しい精神的肉体的疲労とストレスが加わって、これらが瑞男の血液の性状に悪影響を与えたことによるものと推認するのが相当である。しかも、瑞男がその死亡を予見しながらあえて本件一連の公務に従事したという特別事情は、本件全証拠によっても認めることはできない。

以上によれば、瑞男の死亡は公務との相当因果関係がないとはいえない。

三  結論

以上の次第で瑞男の脳卒中(死亡)は公務との相当因果関係はないとしてこれを公務外の災害であるとした被告の本件処分は違法であるからその取消を求める原告の本訴請求は理由がある。

よって、本訴請求を認容することとし、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 小笠原昭夫 裁判官 野崎惟子 裁判官 樋口裕晃)

別表五

<省略>

別表一 月当り超過勤務(時間外勤務)時間数一覧表

「通常時」(53年4月より53年11月まで)を対象

<省略>

別表二 昭和53年12月の超過勤務

<省略>

別表三

<省略>

別表四

第一日(二月一四日)

午前四時三〇分 起床

同五時一五分 自宅出発

蒲生駅集合

(途中挨拶並びに参加の御礼をいってまわる。欠席者の確認する)

同八時四五分 羽田空港発

(小型機のため気圧の変化、風などのため何度も激しく揺れる)

同一〇時三五分 熊本空港着

同一一時 熊本空港を出てバスで市内見学へ

熊本城見学

正午 水前寺公園(昼食)

宇土、三角見学

午後三時三〇分 松島

同四時五分 三角よりフェリーで島原へ

同五時五分 島原着

同五時四五分 雲仙九州ホテル着(宿泊所)

同六時三〇分 夕食会場準備

同七時 夕食開始

同八時三〇分 数回審議委員の部屋廻り

(至同一〇時三〇分)

同一〇時三〇分 自室に戻る

同一一時 就床

第二日

午前五時三〇分 起床

同六時 散歩に出る

(至同七時三〇分)

同八時 朝食

同九時 宿舎出発(バス)

同一〇時二〇分 諌早

同一二時 佐世保

午後一時 平戸(昼食)

同一時四五分 市内見学及び長崎都市計画事業見学に出発

同四時三〇分 旗松亭(平戸)着

夕食の会場準備

同六時 挨拶

(至九時) 夕食開始

歓談

同九時 各審議委員の部屋廻り

(至一一時二〇分)

同一一時三〇分 入浴

(一〇分間程)

同一一時四五分 就床

第三日

午前六時 森田係長ら会田を起こしにいくが熟睡していると判断し、そのまま寝かせておく

同七時 森田係長ら再度会田を起こしに行き異常を認める

同八時頃 医師初診、脳の異常発見

同九時一五分 重久医院(平戸市)入院

同一一時四五分 佐世保中央病院転送入院

昭和五四年二月二一日午前三時三〇分死亡す。

別表六

<省略>

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